本記事では1930年 -1940年の欧米及び日本を中心とした音楽史を解説する。
1930年代の概観
- 略年表
- 1931年 満州事変
1936年 スペイン内戦
1937年 日中戦争 開戦
1939年 第二次世界大戦 開戦
国内外で色々なことが目まぐるしく起きているのが確認できる。すべては1939年に開戦する第二次世界大戦の布石となっていくのだが、まずはヒトラー率いるナチス・ドイツを見ていこう。
ドイツ
第一次世界大戦敗戦国のドイツは多額の賠償金を課されてしまい、ドイツ国民は多額の借金を背負って苦しい生活をすることになった。さらに1929年には世界恐慌が起こり、ドイツ国民はより一層、経済的に苦しくなってしまった。「もうこんな苦しい生活は嫌だ」「強いドイツを取り戻して、どうにかして自分たちの生活を良くしたい」という考えを誰もが抱いていた。国民は、強いリーダーシップを持ってドイツを復興してくれるカリスマを求めていたのだ。
そこで登場したのがヒトラーである。1933年にヒトラー内閣が発足すると、ヒトラーは国の復活、国家第一主義を掲げてユダヤ人排斥など様々な政策を施していった。またナチスは文化政策として退廃芸術の取締りを行った。
退廃芸術とは
ナチスが近代美術や前衛芸術を
「道徳的・人種的に堕落したもので、国内の社会や民族感情に害を及ぼすものである」
として禁止するために打ち出した芸術観
音楽の分野では、退廃音楽と呼ばれ、無調の音楽やジャズの影響を受けた曲、またはどんなスタイルであれユダヤ系の作曲家が書いた作品を上演禁止とし排除した。1937年にミュンヘンで開かれた「退廃芸術展」にならい、翌1938年には「退廃音楽展」がデュッセルドルフで開催される。その展示で、ナチスに目をつけられた音楽家たちは、「彼らの作る音楽は危険で良くないので上演禁止にする!」という退廃芸術のレッテルを貼られてしまった。その展示はその後各都市を巡回していく。
さあ、そこでは誰が告発されてしまったのか?展示は7つのセクションに分けられた。
- ユダヤ人の影響
- シェーンベルク
- ヴァイルとクルシェネク
- ベルク、フランツ・シュレーカー、エルンスト・トッホなどの文化ボリシェヴィキ
- オーストリア=ハンガリー帝国生まれのユダヤ人ピアニストであり教育者 レオ・ケステンベルク
- ヒンデミットのオペラやオラトリオ
- ストラヴィンスキー
このように厳しい取り締まりがなされてしまったため、いわゆる「現代音楽」を作り上げてきた音楽家たちは亡命を余儀なくされる。ユダヤ人のシェーンベルクは1934年にアメリカに亡命し、ストラヴィンスキーは母国のロシア帝国が社会主義国家になってしまったという影響もあり、1920年代早くからスイスやフランス、そしてアメリカへと亡命する。1940年にはヒンデミットやバルトーク、ユダヤ人のダリウス・ミヨーもこの政策から逃れるために亡命したりと、とても多くの前衛的な思想を持った音楽家がヨーロッパを離れた。
また、カール・アマデウス・ハルトマンやボリス・ブラッハーのように国内亡命を余儀なくされた音楽家もいた。ハルトマンは、1939年にヴァイオリンと弦楽合奏のための葬送協奏曲をナチスへの抵抗作品として作曲したが、もちろん当時はドイツ国内では彼の作品は上演が禁止されていたので、この曲の初演は1940年、スイスのザンクト・ガレンという都市で行われた。ドイツでの初演は第二次世界大戦が終わりしばらくたった1959年にようやく行われた。
このように政治体制への抵抗として作曲した作品など、前衛的な作品が当初は演奏されずにのちに発表される、という例はたくさんあったのだ。
ソビエト連邦
人類初の社会主義国となったソ連の巨匠作曲家 ショスタコーヴィチもそのような政治体制との折り合いに生涯苦しめられた音楽家であった。
ソ連には、ナチス・ドイツの退廃芸術の取り締まりという政策が社会主義リアリズムという形で現れる。
社会主義リアリズムとは
ソビエト連邦において公式とされた美術・音楽・文学等の表現方法、評論の指針
芸術においては
「社会主義を称賛し、革命国家が勝利に向かって進んでいる現状を簡単に描いて、国民に革命意識を持たせるように教育するという目的を持ったものを作るようにしなさい。」
ということだ。
ソ連はスターリン体制を確立するために、芸術も国家体制維持のために利用しようという風に考えていた。ソ連の作曲家には「内容において社会主義的、形式において民族主義的、労働者階級の娯楽として現実的な描写を持っている音楽を作曲する」というスローガンの元、社会主義国家に役立つ音楽作りが求められた。要するに、「複雑なことはせずに誰が聞いてもわかりやすく、前向きになりソ連が一番だ!と思える曲を作ってね」ということである。
1906年にロシア帝国のサンクトペテルブルクに生まれたショスタコーヴィチは、早くからクラシック音楽を吸収して作曲を始め、音楽における天才ぶりを発揮した。20代前半に早くもソ連を代表する作曲家だったショスタコーヴィチは、1934年にはヨーロッパの同時代の音楽に影響を受けたオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を発表し、特に大衆の間で大ヒットした。
しかし、このオペラが不倫を題材にした過激なものであり、社会主義国家の形成に役立つには程遠く、1936年このオペラを観劇したスターリンの反感を買う。そしてスターリンがこのオペラを観劇した2日後にソ連の公式新聞である『プラウダ』紙に「音楽のかわりに荒唐無稽」という表題のもと、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は、平明さを欠く分かりにくい卑猥な音楽であり、社会主義リアリズムを欠く音楽であると批判された。また、その一週間後は、バレエ『明るい小川』が「バレエの偽善」という表題のもとに批判されてしまった。
これらはショスタコーヴィチの音楽活動に大きな影響を与え、このプラウダ批判の後、彼のほとんどの作品が上演されなくなってしまった。ショスタコーヴィチ自身もこの事態にショックを受け、前衛的な要素の強い交響曲第4番の初演をとりやめた。なおショスタコーヴィチはその後、1937年に発表した交響曲第5番により名誉を回復した。
このように、ナショナリズム=国家第一主義を掲げるナチス・ドイツと社会主義国家ソ連が自国の地盤を固め、勢力を拡大するために音楽・芸術を統制し、利用し始めた1930年代。
次は、日本と、もう一つの現代音楽の発展の場所であるアメリカの様子も見ていこう。
日本
1930年代に入ると日本の作曲界は飛躍的に発展する。それを象徴する出来事として、1930年の新興作曲家連盟(現在の日本現代音楽協会の前身)の発足と1932年の東京音楽学校(現・東京芸術大学)における作曲科の設置が挙げられる。東京音楽学校に作曲科が設置されたことでより体系的な作曲教育が国内に普及していくこととなる。また新興作曲家連盟の発足によって作品を定期的に発表できるようになった。そして1935年には国際現代音楽協会に加入し、国内外の交流も盛んにできるようになった。
1930年代の日本の音楽は、西洋音楽的な傾向よりも民族主義的な音楽が比較的多く作られた。日本の音階や日本語の特徴に合った作品が多く生まれたということである。例えば、ゴジラの音楽を作曲したことで有名な伊福部昭の日本狂詩曲、松平頼朝の南部民謡によるピアノと管弦楽のための主題と変奏曲が有名である。
アメリカ
さて、アメリカだが1929年に起こった世界恐慌による経済大打撃を回復しようと必死に政策を行っていた時であった。
そんな中、20世紀の音楽史に最も大きな影響を与えた1人、ジョン・ケージが少しずつ音楽活動をし始める。
1912年 カリフォルニアのロサンゼルスに生まれたケージは1930年にパリで建築を学んだ後、31年アメリカに帰国、そこから音楽に真剣に向き合い始め1934年から1937年まで、南カリフォルニア大学でヨーロッパから亡命してきてまもないシェーンベルクのもとで勉強した。1933年から作品を作り始め最初はシェーンベルクの音楽を継承するかのような曲が多数を占めるが、1937年のケージがかいた文章「音楽の未来 クレイド」では既に、電気楽器の可能性、ノイズの重視、実験的音楽センターなどたくさんの新しいアイディアを述べている。1940年には、グランドピアノの弦にゴム・木のかけら・ボルトなどを挟んで音色を打楽器のようなものに変化させたプリペアド・ピアノを考案し、音楽界に新たな風を吹き込み始めた。
おわりに
その後、1940年代前半は第二次世界大戦一色で世界が進んでゆくが、1945年に終戦後まもなく、新しい音楽への渇望が若い世代を中心に広がる。その勢いを吸収しながら戦後の前衛音楽の牙城となったのが、ダルムシュタット国際現代音楽夏季講習会だ。次回はその講習会を中心に見ていきたいと思う。
まとめ
チェックポイント
・ナショナリズム=国家第一主義を掲げるナチス・ドイツと社会主義国家ソ連が自国の地盤を固め、勢力を拡大するために音楽・芸術を統制し、利用し始めた。
・ナチス・ドイツは「退廃芸術の取り締まり」、ソ連は「社会主義リアリズムに則った芸術の推進」というポリシーのもと様々な音楽家を告発し、ダメージを負わせた。
・シェーンベルクやヒンデミット、ストラヴィンスキーらはアメリカへ亡命、ショスタコーヴィチはソビエト体制に受け入れられるように妥協した音楽を作り、生き延びねばならなかった。
・日本ではさらに現代音楽化が進み、日本の音階や日本語の特徴に合った作品が多く生まれた。
・アメリカでは、20世紀の音楽史に最も大きな影響を与えた1人であるジョン・ケージがプリぺアド・ピアノを考案するなど、音楽界に新たな風を吹き込み始めた。
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