作曲家 イサン・ユンについて

作曲家 イサン・ユンについて

この記事ではアジア出身の音楽家として欧米で認知された最初の作曲家の一人 イサン・ユン(尹 伊桑)の経歴や作品について解説する。

経歴

イサン・ユンはアジア出身の音楽家として欧米で認知された最初の作曲家の一人。

1970年代終わりから10年程在職したベルリン芸術大学(当時の西ベルリン)で、細川俊夫氏や三輪眞弘氏ら今日世界的に活躍する日本人作曲家を教えた。

1917年 – 1967年

日本統治時代の朝鮮で生まれた、韓国の作曲家。1917年 日本統治時代の朝鮮の慶尚南道(現在の韓国にある地方行政区で、釜山に近い南部地域)、統営(現在の韓国ではトンヨンと発音される海に面した地域であり、景勝地としても知られる)出身。

東ベルリン事件以降は西ドイツに帰化し、韓国の地を踏むことはなかったが、度々北朝鮮を行き来した。イサン・ユンを知る上で重要な事柄の一つに東ベルリン事件が挙げられるが、これについては後ほど詳しく記す。

京城・大阪・東京で学んだ黎明期

13歳の時にヴァイオリンを習って旋律を作曲し、町内映画館で自作の旋律が流れるのを聴いて作曲家を志した。

ユンの父はイサンが音楽家になることに反対であったため、統営にある商業学校に進学したが、京城(現在のソウル)で軍楽隊出身のヴァイオリニストから和声法を習い、図書館の楽譜から独学で音楽を学んだ。

音楽への想いが捨てきれず、商業学校に進学すれば音楽を学んでも良いという父からの許しを得て、1935年大阪市にある商業学校に入学し、大阪音楽学院でチェロ、作曲、音楽理論を習った。

当時朝鮮では教育機会が限られており、比較的裕福だったユンの家庭は統治元である日本本土での留学を選んだ。大阪市は留学先として環境が整っており、商業学校や音楽学院があった。

そして1937年統営に戻り現地の学校で教えながら、初の童謡集「牧童の歌」を作曲。1939年日本に再渡航し、東京で池内友次郎から対位法と作曲を師事した。

1941年戦争に突入すると朝鮮半島へ戻り、1944年独立運動で2ヶ月間投獄され、その後結核で倒れ、京城帝大病院に入院中に1945年8月の日本の敗戦を迎えた。

フランス・ドイツでの留学期

戦後、韓国で音楽の教員として教鞭をとった後、1956年にパリ国立高等音楽院に留学。その地でオリヴィエ・メシアンを知り、メシアンより

「この国(フランス)は現代音楽には非常に厳しい、ドイツのほうが現代音楽をやりやすい。ダルムシュタットの講習会に参加したらよい」

というアドヴァイスを受ける。

そしてドイツに移り、1957年ベルリン芸術大学に入学。すでに40歳を目前に控えたにもかかわらず、ヨーゼフ・ルーファーから十二音技法を厳しく教わった。またボリス・ブラッハーの薫陶も受けた。

このことで、自作品リストからは前述の童謡集のような類まですべて撤回され、大学入学後の作品しかない。

ピアノのための五つの小品7つの楽器のための音楽弦楽四重奏曲第3番は彼のデビュー作となった

1963年には北朝鮮を訪れ、金日成(キム・イルソン=北朝鮮の建国者であり、1948年から1994年に亡くなるまで同国の最高指導者を務めた人物)とも親交を持った。

しかし1967年6月17日、西ベルリンにて KCIA (韓国中央情報部、ソ連のKGBに似ている)によって拉致され、ソウルに送還された(東ベルリン事件)。

東ベルリン事件

発生背景

韓国の軍事独裁政権が、海外で活動する韓国人や朝鮮人の中から北朝鮮とのつながりを疑われる人物を監視・拘束するために、工作活動を強化していた。これには、文化人や知識人も対象に含まれていた。

ユンの逮捕

ユンは当時、西ベルリンで作曲家として活動していたが、彼が北朝鮮と接触を持ち、イデオロギー的に共産主義に傾倒していると疑われ、1967年6月17日にKCIAによって拉致されてしまった。

送還と拘束そして釈放

西ベルリンから韓国に強制送還され、ソウルで収監された。そして拷問の末、スパイ容疑で死刑を宣告されたが、ストラヴィンスキーカラヤンが主導した韓国政府への請願運動に、ルイージ・ダッラピッコラハンス・ヴェルナー・ヘンツェハインツ・ホリガーマウリシオ・カーゲルオットー・クレンペラーリゲティ・ジェルジュカールハインツ・シュトックハウゼンなど約200人の芸術家が署名した。

1967年12月13日に無期懲役を宣告されたが再審で減刑を受け、1969年2月25日大統領特赦で釈放された。

1969年 – 1995年

尹は西ドイツに追放され、韓国国内で尹の音楽は演奏を禁止された。

1969年から1970年までハノーファー音楽大学に勤め、1971年に西ドイツに帰化した。

その後祖国統一汎民族連合のヨーロッパ本部議長を務めるなど韓国の民主化運動にも力を貸した。1980年の光州民主化運動の動静を聞くと、交響詩「光州よ、永遠に」を書き翌年発表した。

また作品活動を続けながら、たびたび北朝鮮を訪れた。1982年から毎年北朝鮮では尹伊桑音楽祭が開催され、韓国でも尹の音楽が解禁された。

先述のようにユンは1977年から1987年までベルリン芸術大学教授として在職し、作曲科教授として細川俊夫氏、三輪眞弘氏などの弟子を育てた。アジア人の作曲の教授にヨーロッパ人の弟子がついたのは、ドイツ全体ではユンがはじめてである。晩年でもドイツ各地で作曲講習会を開き、孫弟子たちの育成にも熱心であった。

創作意欲は最期まで衰えることなく、1995年にはオーケストラ作品「焔(ほむら)に包まれた天使」が東京で演奏されたが、すでに健康を害して来日できず、1995年11月3日ドイツ・ベルリンの病院で肺炎のため死去。

東洋人が西洋音楽の伝統にどう立ち向かい、いかに自分の語法を見い出して世界中の聴衆に語りかけるか?

その一つの答えを、韓国人のイサン・ユンが日本人の武満徹松村禎三三善晃らと共に東洋の先達として実現させた。

作風

彼の音楽は、韓国の伝統音楽と哲学的思想に基づいた独自の技法で、現代音楽の世界に大きな影響を与えた。

イサン・ユンの音楽の土台となるのは、韓国伝統音楽道教思想である。

この2つの要素が、彼の独創的な音楽スタイルを形作っている。

韓国伝統音楽

上流階級のための伝統的な器楽や声楽を含む、主として王宮や宮廷で演奏された音楽の『正楽』や『民俗楽』を中心とし、旋律に精巧なリズム的装飾が伴う多彩な音楽である。

弄絃(ノンヒョン)

特に注目すべきは、弄絃(ノンヒョン)という技法だ。これは本来、弦楽器の左手技法を指すが、管楽器にも応用され、韓国伝統音楽の本質的な特徴となっている。ヨーロッパ音楽でいうvibratoやglissandoに相当する。

道教思想

次がユンの音楽に影響を与えた道教思想だ。特に『陰陽思想』や『静中動思想』が重要である。

これらは、全ての物事が静と動、陰と陽のバランスの中で成り立っているという考え方だ。

ユンは、この二つを土台として、そこにヨーロッパ音楽の12音技法を融合させ、主要音作曲技法を考案した。この技法により、東洋的要素を取り入れた音楽をヨーロッパの楽器で表現するという新たな可能性を切り開いた。

主要音作曲技法

主要音作曲技法では、12音技法の全ての音が平等であるという特徴に対し、ユンはこれに主要音という概念を導入することで、特定の音に重力を持たせることで旋律に個性を与える。旋律は固定された音を演奏するのではなく、旋律の中でも主要音に多様な方式のvibratoやグリッサンドなどの装飾を伴い、音の高低や音色、強弱などによって、旋律に濃淡効果を添える。

奇しくも、1970年代は前衛の停滞期であり旋律の復権が各方面から叫ばれたため、ユンの作風はその時代の波に完全に乗ることになったのであった。

そして1960年代初頭、12音技法などの音列音楽の衰退と共に、リゲティやペンデレツキなどの音色作曲技法が台頭。独自の音色を持つ尹伊桑の作品・作風はこの流れにも乗り、ヨーロッパの前衛音楽界で確固たる地位を築いた。

美学的なスタンス

興味深いのは、ユンが美学上の理由から電子音楽には一切手を出さなかったことだ。

もともと現代音楽の前衛的な側面には否定的な態度で臨んでいたが、弟子には

12音で与えられた編成で、限界まで自分の音で書いて来なさい

と命じるなど、西洋音楽の伝統への敬意は終生変わることはなかった。

その作曲法はきわめて個性的なもので、曲によっては

一本の旋律線を極端に長く描くため、五線フルスコアを横に並べきり、ひとつの楽器をその並べきった終わりまで書いてゆく

ものだったと伝えられている。その作曲の発想はクセナキス湯浅譲二と同じくグラフィックであったと考えられる。

東洋と西洋の調和

ユンは東洋と西洋、理性と感情という対立する要素を音楽で統合し、自己完結型の芸術表現を超えた普遍的な音楽の可能性を追求した。

イサン・ユンの音楽は、東洋と西洋、哲学と音楽の境界を超えた独創的な世界を切り開いた。 その功績は、現代の日本の音楽においても大きなインスピレーションを与え続けている。

作風の変遷

前提として、彼の音楽は、韓国の伝統音楽と哲学的思想、そしてヨーロッパの音楽技法を融合させた独自のスタイルで、現代音楽の発展に大きな影響を与えた。

イサン・ユンの作風は、韓国時代からヨーロッパ時代へ、さらには70年代から晩年に至るまで、大きな変化を遂げた。各時代における特徴を見ていこう。

韓国時代の作品

韓国時代の作品では、伝統音楽の素材を用いてはいたが、ユン独自の作曲技法はまだ確立されていなかった。

彼の音楽が本格的に変化し始めたのは、1956年以降、ヨーロッパへ留学してからである。

ヨーロッパ時代(12音技法)

1956年、ヨーロッパに渡ったユンは、ヨゼフ・ルーファーやボリス・ブラッハーから教わった12音技法を取り入れ、現代音楽の最前線で新しい挑戦を始めた。

この時期、彼の音楽には厳密な構造と複雑な音列が特徴的である。

韓国伝統音楽と12音技法の融合

1960年代初頭から、ユンは12音音列に韓国伝統音楽の旋律構造の特徴を結合させる試みを始める。この時に考案されたのが、彼独自の『主要音作曲技法』だ。

この技法では、特定の音に重力を持たせ、旋律に個性を与えることが可能になった。

1970年代の変化

1970年代半ばになると、ユンの音楽は徐々にシンプルになり、構造が理解しやすいものへと変わっていった。これにより、より多くの聴衆に響く音楽へと進化していく。

1980年代以降の特徴

1980年代以降、ユンの音楽はさらに『自由』や『平和』、『人類愛』を追い求めるものとなり、音楽構造も単純で明快なものへと変化。また、協和的な音響が特徴として挙げられる。

一貫して用いられた弄絃(ノンヒョン)

イサン・ユンの音楽において、一貫して用いられているのが『弄絃(ノンヒョン)』という技法。元々は韓国の伝統弦楽器における左手技法を指していたが、ユンはこれを管楽器などにも適用し、音楽表現の幅を広げた。

おすすめ曲

最後に、ユンの代表的な作品をいくつかご紹介したい。

Kontraste(1987年)

まずヴァイオリン独奏のための Kontraste。

コントラステ(独)とは対比、対照という意味。

「陰と陽」「西洋音楽と東洋音楽」「南と北」などをテーマとした、作曲家のさまざまな展望が詰まった一曲である。

従来のような、ヴァイオリンが朗々と旋律を歌い上げるというのではなく、ピチカートや小刻みなボウイングを多用し、弦楽器を打楽器的に使うユニークな試みがなされている。

vibrato の程度を五種類で区分して、多様で繊細な音の震えを表現する。

礼楽(1966年)

弦楽のための 礼楽(レアク)。

韓国語がタイトルに冠されたこの作品はドナウエッシンゲン音楽祭で初演され、北東アジア的な色彩を持つこの作品で、国際的評価を得た。

ピリ(1971年)

そして最後はオーボエ独奏のための ピリ(1971年)。

韓国の民族楽器の名前で、日本の「篳篥(ひちりき)」に似た楽器のようである。幽玄な雰囲気を醸し出し、東洋的な香りを感じさせるユンの真骨頂を味わうことができる作品だ。

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