本記事では1970年 -1980年の欧米及び日本を中心とした音楽史を解説する。
1970年代の概観
- 年表
- 1970年 大阪万博
1973年 第一次オイルショック
1979年 第二次オイルショック
1970年代はオイルショック=石油危機が2度起こり、それによって世界の経済は混乱に陥った。
ヨーロッパ、アメリカ及びソ連の音楽状況は1960年代に流れを引き継いでそれほど大きな変化はない。その年代の音楽は前回の記事で詳しく解説しているのでぜひご覧いただきたい。
ヨーロッパ
今回は1970年代の日本にフォーカスを当てるがその前に、1977年にIRCAMという音響および音楽の探求と共同のための研究所がフランスのパリにでき、それがのちに新たな音楽の学派を形成することになったり大きな影響を及ぼすため、まずはIRCAMについて述べたい。
IRCAMとは、音響および音楽の探求と共同のための研究所で、1970年より、ポンピドゥー・センターの関連組織として当時のフランス大統領 ジョルジュ・ポンピドゥーの指導の下、ピエール・ブーレーズによって組織され1977年に設立した。日本語では、フランス国立音響音楽研究所と呼ばれる。
近代芸術の愛好家でもあったジョルジュ・ポンピドゥー大統領が、首都パリの中心部に造形芸術、デザイン、音楽、映画関連の施設及び図書館を含む近現代芸術の拠点となるポンピドゥー・センターを設立。当初はポンピドゥー・センターに音楽部門が設置される予定は無かったが、ポンピドゥー大統領の強い意向により、音楽研究所の設立が決定。
大統領は、1966年からは全ての活動を止めてドイツに拠点を置いていたブーレーズを急遽パリに呼び戻し、研究所の計画構想を話してこの計画の指揮をしてもらうように要請し、ブーレーズはこれを承諾する。
ルチアーノ・ベリオやヴィンコ・グロボカールら様々な国の一流音楽家とともに設立の準備をして今日では芸術の未来研究と科学技術のイノベーションが集約する唯一の場で、音楽制作と科学研究に特化した公的研究機関としては世界で最も大きな組織である。
このIRCAMで、音響の分析や電子音響、コンピュータによる音響合成を行ったことで、スペクトル楽派と呼ばれる楽派が誕生した。音のスペクトル分析に基づいて新しい作曲技法を編み出したジェラルド・グリゼーやトリスタン・ミュライユ、フィリップ・マヌリが1980年代に入り重要な作品を書いている。
日本
さあ、1970年代の日本をみていこう。
1970年、大阪で初めて世界万博が開かれた。(日本初)
この国際万博では、戦後から1960年代にかけて欧米の同時代の動向を取り入れつつ独自の作風を育んできた日本の作曲家たちの成果が一堂に会する場となった。
会場「鉄鋼館」では、武満徹のクロッシング(1970年)、高橋悠治の慧眼(1969年)、会場「電気通信館」では湯浅譲二のテレフォノパシイ(1969年)、が上演され、どの作品も音素材の開拓から空間へと関心が広がっていった欧米の動向に並びつつ、その中に作曲者それぞれの視点が反映された作品となっている。
他には、ミニマル・ミュージックが持つ反復という性質に対して異なったアプローチを行った一柳慧のピアノメディア(1972年)は、コンピュータに人が近づくとはどういうことかというところから発想を得て作られていて、20世紀後半の日本のピアノ作品の中でもっとも有名なものの一つである。
また、国は日本ではないが同じミニマル・ミュージック、ということではそれに近しい、またはその影響を受けていると思われる作品にジェフスキー作「不屈の民による変奏曲」(1975年)という曲がある。
様々な現代音楽的な技法を駆使したピアノの大作であるが、この中にはすでにスタイルとしてのミニマリスムが部分的に登場している。
1970年代になると、欧米における前衛的動向の主なものは出尽くしてしまっていて、この時代に活動を始める作曲家はそれらの前衛音楽の成果を踏まえて、それぞれ独自の作風を作っていった。
例えば、N響アワーというTV番組の人気司会者で作曲家の池辺晋一郎が作曲した《60人の奏者のためのエネルゲイア》(1970年)や《オルガンとオーケストラのためのダイモルフィズム》(1974年)という曲は、1960年代に普及した音響作法からインスピレーションを受けているが、明確なメロディー的なものも聴き取れ、その点ではポスト・モダニズムの傾向の音楽でもあると言える。
池辺の作風は西欧の前衛音楽に近いものがあるが、近藤譲の作風はジョン・ケージをはじめとするアメリカ実験主義音楽に近い。
彼の手により、9人の器楽奏者のための〈ブリーズ〉や図形楽譜を用いる不特定3楽器のための〈スタンディング〉などがこの時期に生まれた。
近藤の音楽はケージの偶然性の音楽、その後のミニマル・ミュージックと重なり合う部分がある。
また1970年代の日本での音楽祭シーンも、1960年代のそれとは内容が変わってきた。欧米の作品の紹介を軸としていたものが、日本の作曲家に作品を委嘱するということになったのである。海外の動向を吸収しようというよりも、60年代までに得た作曲技法をいかに方向付けていくか、その指針を日本の伝統、あるいは独自のシステムに見出そうとする姿勢が優勢になる。その傾向は池辺や近藤の一回り後の世代の作曲家たちによくみられる。
新実徳英の打楽器アンサンブルのためのアンラサージュ(1977年)や西村朗の弦楽四重奏のためのヘテロフォニー(1975年~)、打楽器アンサンブルのためのケチャ(1979年)はアジア的なテクスチャー、感覚を抽象化した作風を示している。
そして1955年生まれの日本の現代音楽シーンの代表的な作曲家である、細川俊夫は1970年代にドイツのベルリンやフライブルグで学び、作品にはドイツの前衛的なスタイルがベースとなって反映されているが、それと同時に日本的なテクスチャーも彼の音楽では非常に重要な要素の一つとなっていく。1978年に発表された彼の処女作と呼ばれるヴァイオリン独奏のためのWinter Bird では、その様子が見事に描かれている。
新実、西村、細川三氏のこれらの作品はヨーロッパの前衛音楽の路線にあるのに対して、細川俊夫と同じ年に生まれた藤枝守の音楽はアメリカ実験主義音楽の路線にあると思われる。
1980年に作られた遊星の民話―バッハの逆行カノンを原型とする9つの操作 は、バッハの曲の旋律をシステムに従って様々に変換した形で重ね合わせ、それを通して原曲の旋律を浮かび上がらせる。よく知られた調的な旋律や反復的手法を使っている点で、ミニマル・ミュージックに通じるものがあるが、藤枝は独自のシステムによって反復的な音の連なりに変化を派生させている。
またこの年代から現代曲をレパートリーとする演奏家あるいは演奏家グループが結成される。世界的に有名なのが、1974年に結成されて現在も世界の第一線で活躍している伝説的ヴァイオリニスト、Irvine Arditti 率いるアルディッティ弦楽四重奏団、そして1976年フランスのパリが拠点のピエール・ブーレーズ が結成した現代音楽専門のアンサンブル、Ensemble InterContemporainだ。この両グループを筆頭に1980年代になり、ヨーロッパ諸国、そしてアメリカでグループが増えていく。
1980年代に入るとインターネットが誕生したり、年代末には米ソの冷戦が終結したりと、大きな出来事がたくさん起こっていく。
音楽、芸術分野ではどのような影響が起こったか?
次回の記事ではそのことについて述べる。
まとめ
チェックポイント
・1977年、フランスのパリに、音楽制作と科学研究に特化した世界で最も大きな公的研究機関IRCAMが設立され、新たな音楽のスタイルがその研究所から生まれるなど後世に大きな影響を及ぼした。
・日本は1970年に日本初の世界万博が大阪で開かれ、そこで日本の作曲家の作る、ヨーロッパとは一味違った、それぞれ独自の現代音楽が世界中に紹介されていき、欧米をはじめ世界との交流がますます深まり、現代音楽の分野で、世界の中でも確かな地位を築き始めた。
・現代音楽の演奏を専門に演奏する団体がヨーロッパで現れ始め、1980年代以降。アメリカ、日本をはじめ世界にどんどん専門の新しい団体が出始めた。