1960年 – 1970年の音楽史

1960年 – 1970年の音楽史

本記事では1960年 -1970年の欧米及び日本を中心とした音楽史を解説する。

1960年代の概観

年表
1961年 ベルリンの壁 構築
1962年 キューバ危機
1965年 ベトナム戦争 開戦(〜1975年)
1968年 キング牧師暗殺

ベルリンの壁構築、キューバ危機、ベトナム戦争と、アメリカとソ連の争いが一層深まっていく。そして、今でも続く人種差別問題、キング牧師の暗殺という大きな事件が起こり、この時代でも戦争、人種差別が深刻化していた。

ヨーロッパ

キング牧師の死はアメリカ中を揺るがし、当時アメリカの大学で作曲を教えていたイタリア出身の作曲家ルチアーノ・ベリオは、彼の代表作《シンフォニア》(1969年) の第二部に、キング師に対する哀悼の意を込めて「オー・キング」という題名をつけた。

キング師の名前「マーティン・ルーサー・キング」という言葉が歌詞として、色々な形で歌われ、その巧みな使われ方によって異様な効果を上げることに成功している。

人々が尊敬していた偉人の名前の反復による心理的効果、これはこの時代の「20世紀の聖歌」なのではないか_。そのように感じさせる。

この曲はコラージュという手法が用いられている。コラージュとはもともとは美術用語で、キャンバスに新聞紙や布を貼り付ける絵画の手法を指していたが、音楽の分野にも引用されるようになった。

シンフォニア》を例に挙げると、バッハ、ベートーヴェン、ブラームス、ドビュッシーなど過去の様々な作曲家の作品が引用されている。

曲のリンクを貼っておくので特に第二部、第三部を注意深く聴いていただきたい。

このコラージュ技法は他の作曲家も使用した。ドイツの異端作曲家 ベルント・アロイス・ツィンマーマンも《ユビュ王の晩餐の音楽》(1966年)や《ある若き詩人のためのレクイエム》(1969年)でこの手法を引用している。

この引用、コラージュの技法はポスト・モダンの音楽の一つだ。

ポスト・モダンの音楽とはモダンの後の音楽という意味で、無調の音楽が始まった1900年初頭からこの1960年代まで、ヨーロッパの前衛音楽家たちは様々な新しい音楽を追い求めてひたすら前進してきた。

その行き着いたところが、今まで300年あまり続いた調性音楽の破壊、音楽の定義の根本からの見直し、前回紹介したトータル・セリエリズムだったのだ。

トータル・セリエリズムが旺盛の頃、ケージが偶然性・不確定性の音楽を紹介しヨーロッパに衝撃をもたらした。作曲家のあり方自体をも覆すその思想に、ブーレーズシュトックハウゼンも震撼とさせられたのであるが、彼らはケージのように全てを偶然性に任せてしまうのは作曲家の怠惰であると非難して、アレアトリー (管理された偶然性)による作品を考案した。

全体としては作曲家がコントロールするものの、小さい部分の構成もしくは大きい部分の構成のいずれかを偶然に委ねたのだ。

偶然性の柔軟さを吸収しながらも、作曲家の権利を譲らない、ヨーロッパ人らしい解決策である。ブーレーズの「ピアノ・ソナタ 3番」やシュトックハウゼンの「ピアノ曲XI」がその良い例だ。

その後、クラスター、という技法を使った曲が発表された。クラスターとは音の塊のことで、有名な曲がポーランドの作曲家 クシシュトフ・ペンデレツキの作曲した《広島の犠牲者に捧げる哀歌》(1960年)やスタンリー・キューブリック監督作「2001年宇宙の旅」や「シャイニング」などに音楽が使用されたことでも知られるジョルジュ・リゲティの《アトモスフェール》だ。

そして、トータル・セリエリズムアレアトリークラスターを経験したのち、ヨーロッパの前衛音楽業界はついに新しい手法を生み出す動きが停滞してしまったのだった。

そこで台頭してきたのが、アメリカの前衛音楽家たちである。

アメリカ

アメリカでは、ジョン・ケージを中心に1950年代から実験主義音楽の活動が盛んに行われていた。

1961年にはフルクサスという前衛芸術団体が発足され、既成の芸術概念に囚われない新たな活動の母体となった。そこでは、集団即興演奏や直観による瞑想音楽を奏でていた。

そのフルクサスのメンバーだった、ラ・モンテ・ヤングたちが、新たな音楽「ミニマル・ミュージック」というものを生み出した。

このミニマル・ミュージックの特徴は小さなモチーフを繰り返すというもので、反復音楽と呼ばれることもある。

単純なモチーフを反復するこのジャンルはオープンリールなどの磁気テープと相性が良く、初期の頃は「テープループ」による作品が多く作られていた。

このようなエレクトリックな楽器も多く取り入れられ、現在ではクラブ系のループ音楽によって大衆にも広く支持されている。

はっきりとした調性のある曲が多いのも特徴で、現代音楽特有の難解さとはかけ離れた印象を持たれる方も多いのではないだろうか?

これは基本的に西洋の前衛音楽に対するアンチテーゼがルーツになっていると捉えられており、このジャンルを作った中心人物でインドやアフリカなどの辺境を訪れ、インスピレーションを受けた、テリー・ライリーフィリップ・グラススティーブ・ライヒらの音楽的思想が体現されている。

代表的な曲が、ライリーの「in C」(1964年)やライヒのピアノフェーズ(1967年)、ヴァイオリンフェーズ(1967年)。

これらの初期のミニマル・ミュージックでは、作曲家が音型をずらしていくプロセスを作り、そこからその都度、どんな音の響きが生まれてくるのか、オーディエンスはそれを聴きとることを楽しんだ。

ヨーロッパが行き詰まりを見せていた中、アメリカの前衛音楽家たちの活躍が著しく目立ってきた1960年代。

次はそのころのソ連、日本の状況はどうだったかをみていこう。

ソビエト連邦

1950年代後半に雪解けになったソ連では、それまで知ることの困難だった西洋の前衛音楽・芸術の情報が一挙に流れ込んできて、若い作曲家たちはそれらを貪欲に吸収しながら、独特の作風を編み出すことになる。

いわゆる「多様式主義の音楽」で、セリー音楽やクラスター、中世・ルネッサンスの音楽様式が並存しているような、歴史の序列を度外視した音の世界が出来上がった。ジャズの即興演奏を取り込み、古典派やロマン主義の様式と現代的な響きを掛け合わせたシュニトケ交響曲第一番が良い例である。

日本

日本では、ヨーロッパの前衛音楽に加えてアメリカの実験主義的音楽がジョン・ケージの弟子で現在の日本音楽界の巨匠 一柳慧によって紹介された。これにより日本でも実験主義的な動向が活発になる。そして、ヨーロッパの前衛音楽やアメリカの実験主義的音楽の作曲技法をとおして、個性的な作風の曲も現れてくる。その一番代表的な曲が、戦後日本の代表的な作曲家 武満徹琵琶と尺八とオーケストラのためのノヴェンバー・ステップス」だろう。トーンクラスターをはじめとした、欧米の前衛音楽から得た手法と邦楽器の特性を絶妙にマリアージュさせた名作である。

まとめ

チェックポイント

・1960年代に入り、ヨーロッパの前衛音楽がトータル・セリエリズムを境に少しずつ行き詰まりを見せ始め、それに変わりアメリカの前衛音楽家たちが示す実験主義的音楽の活動が盛んに行われていた。

・特にミニマル・ミュージックは前衛音楽方面だけに限らず、大衆的なポップミュージックなどにも幅広く影響を及ぼした。

・ソ連は若い作曲家たちがヨーロッパの前衛音楽の手法を積極的に取り入れ、多様式主義の音楽を作り始めた。

・日本は、西欧の前衛音楽に加えて、アメリカの実験主義的音楽の情報も得て、武満徹をはじめとした戦後を代表する作曲家が次々と独自のアイデンティティを持った作品を作り始めた。

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