本記事では1950年 -1960年の欧米及び日本を中心とした音楽史を解説する。
1950年代の概観
1950年からの10年は新しい音楽や作曲技法が色々と登場した。
ピエール・ブーレーズ、カールハインツ・シュトックハウゼンが中心となったトータル・セリエリズム、ジョン・ケージの不確定性・偶然性の音楽、ヤニス・クセナキスの確率的・推計学的作曲法を使った音楽、ミュジック・コンクレート(日本語で具体音楽と呼ばれる音楽)、電子音楽そしてソ連及び日本の音楽状況をひとつひとつ紹介していきたい。
- 年表
- 1950年 朝鮮戦争
1954年 米 ビキニ環礁での水爆実験
1956年 スターリン批判
1958年 東京タワー完成
1950年代はアメリカを盟主とする資本主義・自由主義陣営と、東側諸国のソ連を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造、いわゆる冷戦の構造が固定した時代として位置づけられる。西ドイツを筆頭に西側諸国では、経済が急速に復興し、1920年代と同様の消費生活が行われるようになり、都市近郊には郊外住宅が発達した。また朝鮮戦争後の東西ブロックの緊張から、核開発をはじめとする軍備拡張競争、宇宙開発競争、西側における共産党弾圧など、各国が他国よりも軍事面で優位に立とうとする争いがたくさん起こり自分の国の力を示し合った時代であった。
そのような状況の中音楽の分野では新たな音楽のスタイルも登場して、世界各地で著しく発展していく。
まずはヨーロッパの音楽状況を観ていこう。
ヨーロッパ
1946年 ドイツのダルムシュタットで始まったダルムシュタット国際現代音楽夏季講習会は1950年代に入り、ますます発展していく。
そこでは、12音技法からメシアンが導いたセリー音楽へ、そしてそのセリー音楽からトータル・セリエリズム、日本語で総音列音楽という音楽が誕生した。
トータル・セリエリズム
これは前回の記事でご紹介したメシアンの音価と強度のモードという曲を発展させて、メシアンの弟子のブーレーズとシュトックハウゼンによって完成された音楽だ。ブーレーズは構造I(1952年)をシュトックハウゼンはクロイツシュピール(1952年)を完成させ、これが本格的なトータルセリエリズムの始まりと言われている。
このように全ての音楽要素が決められるのは、演奏家にとっては演奏しずらかったり、演奏不可能という事態も当然起こる。
そこで、総音列主義者たちは生身の人間に演奏させることよりも、もっと正確に譜面を再現することができるものを求めた。
その最も代表的なものが電子音楽である。電子音楽については後に紹介する。
利点と問題点
話はトータル・セリエリズムに戻って、この完璧主義な音楽の誕生は方法論的な側面から見ると、数理的な操作で個々の音が定められていくので、作曲家は無意識のうちに慣れ親しんだ書法に頼ってどこかで聴いたことのある音楽を書いてしまう、という危険を回避することができた。
ブーレーズやシュトックハウゼンは講習会の講師となって生徒にこの作曲法を熱心に教えた。
ヨーロッパ流の徹底した合理主義とまだ誰も聞いたことのない音楽を作りたいという衝動に支えられて、トータル・セリエリズムは1950年代半ばには多くの音楽家を魅了し、支配的な作曲技法になった。
しかし問題点も多く、一つは「人間が聴くことのできる情報処理能力には、限りがあるのではないか」ということだった。実際、初期のトータル・セリエリズム楽曲の演奏はかなり間違いが多く、しかもそれを聴く聴衆の耳も慣れていない為ついていけず、問題は深刻化した。
もう一つの欠点は「どの曲も同じ風に聞こえてしまう」という『音響パターンの一様化』だ。
このことにはすぐに多くの作曲家が気づき、「トータル・セリエリズムの次の音楽は何か?」というポスト・セリエル、についての議論が加速化した。
終焉と継承
そして1958年、ブーレーズが多くの仕事のため断り空きが出た講師のポストに、シュトックハウゼンがジョン・ケージを推薦する。そして、アメリカからやってきたジョン・ケージが「不確定性・偶然性の音楽」という概念をここで紹介し、多くの参加者が衝撃を受ける。これを境に、行き詰っていたトータル・セリエリズムは早くも終焉を迎えた。
しかし広い意味でのセリー音楽はその後1970年代に入り、イギリスのブライアン・ファーニホウたちに継承されていく。
不確定性・偶然性の音楽
さあ、1958年にケージがドイツ、ヨーロッパに持ち込んだ「不確定性・偶然性の音楽」とは一体どのような音楽だったのか。
4’33”
おそらくこの音楽を代表する一番有名な作品が1952年に発表された4’33”だろう。
この作品は、音楽は音を鳴らすもの、という常識を覆す「無音」の音楽である。
3楽章から構成され、楽章を通して休止することを表すtacetが全楽章で指示されている。
演奏者は舞台に登場し、楽章の区切りを示すこと以外は楽器とともに何もせずに過ごして、一定の時間が経過したら退場するだけ、という曲だ。
演奏に用いる楽器の選択と各楽章の所要時間は演奏者の裁量に委ねられており、アンサンブルでの演奏も可能。
「4分33秒」というのは、初演時の合計の演奏時間であった。
その時の会場の音、聴衆のざわめきだったり、呼吸する音はその場一回限りの、誰も意図して作ることのできない、まさに偶然性・不確定性の音楽だ。
この曲は偶然性の音楽、不確定性の音楽の最も極端な例だが、偶然性の音楽、特にジョン・ケージの作品には基本的に、世界に禅を普及させた仏教学者 鈴木大拙の禅などの東洋思想の影響があり、「音を音自身として解放する」「結果をあるがままに受け入れる」という姿勢がある。
ここからはもっと具体的にみていこう。
偶然性の音楽とは、曲を作る段階において偶然の要素によって音が決定され、音楽になっていくというものだ。例えば、サイコロの一の目はド、二の目はレ、といった感じである。なので、なぜこのようなメロディー、音楽になったのか?と聞かれると、サイコロの目が偶然そのように出たから説明はできない、というようにしか答えようがない。
対して、不確定性の音楽とは、出来上がった曲の音やリズムがそもそも決まっていない音楽だ。
演奏する人や楽譜の解釈によって出てくる音がバラバラになる。
このような感じで、音が決められているのが偶然性の音楽、図形楽譜のようなもので、音やリズムはその時、その演奏者になってみないとわからない、というのが不確定性の音楽なのだ。
以上は、ケージの追求した広くまとめて偶然性の音楽だが、ギリシャ出身の作曲家、ヤニス・クセナキスは、違った偶然性の捉え方からインスピレーションを受けて、確率的、推計学的作曲で1955年 メタスタシスという曲を発表した。
推計学的音楽・アルゴリズム作曲法
メタスタシスの出発点となったのは「音の密集した塊」というアイディアである。子供の頃に体験したキャンプでの森の中での様々な虫や鳥、風の音などが一気に自分に押し寄せてくる感覚、アテネ市街でのデモや戦いでの強烈なざわめき。クセナキスはそれらを表現したいと思った。ただ人の感覚でランダムに音を選んで塊とするのではなく、コンピュータープログラムあるいは数表を用いることによって、確実に規則性や周期性を持たない、そして他と比べて頻繁に繰り返される数値がない数の集まりを表出した。
それを音にして音楽=メタスタシスにした。これはアルゴリズム作曲法とも言われている。
以上のように、ケージとクセナキスの作曲概念は似ているようで、明確に違う。
この時期のケージの作品は偶然性の音楽、クセナキスの音楽は推計学的音楽と分けておくと良い。
電子音楽
前述のメタスタシスはIBMのコンピュータによって計算されて作られたのだが、演奏はあくまで生楽器を使った演奏者によって行われる。なので、この曲は偶然性の音楽でもあるのであるが、もし「電子機器を使って作られた音楽の全ては電子音楽」、というような、物凄い広い意味の中で捉えると『電子音楽』と呼んでもよいのかもしれない。
この1950年代から発展してきた電子音楽が登場した経緯に、1910年代に発明されたテルミンやオンド・マルトノなどの電子音楽の発明、テープによる録音技術、コンピュータの発明が関係している。
その中で、音を録音して編集する「ミュジック・コンクレート」、日本語で具体音楽と呼ばれる流派と、音そのものを作り上げていこうという「電子音楽」の流派が区別されるようになる。
今日においてはこれらの区別は意味がなく、どちらとも取れない曲で現在は溢れているし、早くも1956年にはシュトックハウゼンが少年の歌のような、分類が難しい曲を作っているが、ここではそれぞれ簡単に説明していきたい。
ミュジック・コンクレート
一つはミュジック・コンクレート、日本語で具体音楽と呼ばれる音楽だ。
鉄道の音をはじめとする現実音や楽器音のような規制の音響を録音し、編集・加工することによって仕上げられたもの。フランス・ラジオ放送の技術師だったピエール・シェフェールが中心人物で、パリを中心に繰り広げられた。最初の作品はシェフェールの騒音のエチュードだ。
シェフェールは1951年にピエール・アンリと〈ミュジック・コンクレート研究グループ〉を結成している。
電子音響発生機器を使った音楽
もう一つは、電子音響発生機器を使った音楽=電子音楽だ。倍音を含まない純音やホワイト・ノイズといった素材を合成して、加工することによって構成されたものだ。
1951年、ドイツのケルンの放送局に開設された電子音楽スタジオで、シュトックハウゼンが中心となって様々な音楽を作っていった。
シュトックハウゼンは、最初は習作I・II といった純粋な電子音楽作品を作っていき、1956年には先ほど少し触れた、声と電子音を組み合わせた少年の歌という、具体音楽と電子音楽を融合した作品を生み出した。
ケルンに電子音楽スタジオができるとこのような形で世界各地に相次いで電子音楽スタジオが開設されていった。
- 電子音楽スタジオ開設年表
- 1951年 ケルン・ニューヨーク
1953年 東京・ミラノ
1957年 ミュンヘン・ワルシャワ
1958年 ブリュッセル
1959年 トロント・サンフランシスコ
1961年 ユトレヒト
このように1950年代、戦後のヨーロッパでは新しいスタイルの音楽が次々に花を開き始める。
さあ、次はこの時期の社会主義国家 ソ連と日本の様子を観ていこう。
ソビエト連邦
1950年代に入り、ソ連は一つの時代の終わりを迎える。
それが1953年のスターリンの死である。その後、スターリンによる芸術の厳しい取締りが緩和され始め、1956年にはスターリンの後を継いだフルシチョフがスターリン個人崇拝批判を展開、ようやく「雪解け」がはじまった。「雪解け」によりまず、ジダーノフ批判でやり玉にあがったショスタコーヴィチの名誉が回復された。そして同じく批判の対象となっていた、セルゲイ・ラフマニノフ、ニコライ・メトネルなどの作品がつぎつぎと初演された。1957年にはピアニスト、グレン・グールドがソ連を訪問して現代音楽を演奏し、熱狂的な拍手に迎えられる。50年代の終わりからは国際青年フェスティバルがモスクワで開かれ、このイベントが外からの情報の流入につながり、新進気鋭の作曲家たちソフィア・グバイドゥーリナやアルフレート・シュニトケ、ニコライ・カレートニコフらはこの現象の中で、ストラヴィンスキー、バルトーク、ブーレーズ、シュトックハウゼン、コラージュ技法、電子音楽などを一挙に勉強し始める。
その優秀な作曲家の1人、アルフレート・シュニトケは1958年、長崎市への原子爆弾投下を題材とした作品であるオラトリオ『長崎』を作曲した。この作品は彼のモスクワ音楽院の卒業制作として作られ、テキストには、ソフローノフの詩、島崎藤村の『朝』と米田栄作の『川よ とわに美しく』をロシア語に直したものが使用された。
1959年にはバーンスタインがニューヨーク・フィルを率いて訪れ、当局の抑圧を押し切ってストラヴィンスキーの『春の祭典』を上演、ストラヴィンスキーの帰国の意図を伝えた。その後なんとか、ストラヴィンスキーのソ連訪門は認められた。その際バーンスタインはショスタコーヴィチ、アラム・ハチャトリアンらのソ連音楽業界のエリートや若手音楽家たちとも面会し、これがきっかけでストラヴィンスキーの音楽は全面的に解禁され、自由に演奏されるようになった。ストラヴィンスキーの作曲技法はシュニトケ、シチェドリンらに広く影響を与えた。
日本
最後に1950年代の日本を見ていこう。
1945年以降、12音技法をはじめとするセリー音楽、電子音楽、ミュジック・コンクレート、偶然性・不確定世の音楽などの前衛音楽の作曲技法が、欧米で実践されるのとほぼ同時に日本にも取り入れられるようになる。1950年代に入ると戦後の混乱がひと段落し、入野義朗は1951年より、12音技法を紹介する論文を執筆するほか、実際に12音技法を使って7楽器のための協奏曲(1951年)を作曲、これは日本の中で先駆的な作品となる。
黛敏郎は1953年にミュジック・コンクレート作品 X・Y・Zを制作し、1955年には諸井誠と共に電子音楽の作品 7つのヴァリエーションを制作、日本におけるミュジック・コンクレート作品、電子音楽作品の先駆けとなった。
また、1950年代後半から60年代にかけては欧米の同時代の前衛音楽を日本に紹介する動きも活発になり、1957年に柴田南雄、黛敏郎、入野義朗、諸井誠らによって結成された20世紀音楽研究所は定期的に音楽祭を開いて、メシアン、ブーレーズ、シュトックハウゼンの作品などを国内に紹介し、日本の前衛的な作曲活動を大いに刺激した。欧米の全英音楽から影響を受けるだけではなく、そこから独自の作風を提起して、それが国際的にも評価されるようになっていくのが1950年代の日本であった。
まとめ
チェックポイント
・1946年に開始されたドイツのダルムシュタットでの現代音楽講習会がさらに盛り上がり、12音技法の一つの極み、トータルセリエリズムが完成したが、問題点も多く、1958年にジョン・ケージによって偶然性の音楽が持ち込まれ、終焉に追い込まれてしまった。
・ケージは、4’33”をはじめとした偶然性の音楽、不確定性の音楽をヨーロッパに伝え、ヨーロッパの音楽家たちは全く新しい概念を持つこれらの音楽に衝撃を受けた。
・ヤニス・クセナキスは、違った偶然性の捉え方からインスピレーションを受けて、コンピュータを使い確率的、推計学的作曲で作品を作った。
・シュトックハウゼン、ブーレーズ、クセナキス、シェフェールらが電子機器を用いての作曲を開始し、具体音楽、電子音楽の作品を次々と生み出していった。
・ソ連では、雪解けが起こり、芸術規制の緩和により新進気鋭の作曲家たちが欧米の前衛的な作曲技法を学び始めた。
・日本は欧米の前衛音楽から影響を受けるだけではなく、そこから独自の作風を提起して、それが国際的にも評価されるようになっていった。