1940年 – 1950年の音楽史

1940年 – 1950年の音楽史

本記事では1940年 -1950年の欧米及び日本を中心とした音楽史を解説する。

1940年代の概観

1940年代前半は、第二次世界大戦一色で世界が進んでいくが、1945年に終戦後まもなく、新しい音楽への渇望が若い世代を中心に広がっていく。

略年表
1941年 真珠湾攻撃
1945年 第二次世界大戦 終戦
1947年 インド独立
1949年 中華人民共和国成立

ヨーロッパ

その勢いを吸収しながら戦後の前衛音楽の牙城となったのがダルムシュタット国際現代音楽夏季講習会である。

ダルムシュタット国際現代音楽夏季講習会

この講習会は1946年 ドイツのフランクフルトから電車で約15分のところにあるダルムシュタットという街で始まった。ダルムシュタット市とその州ヘッセンそしてアメリカ軍が経済的援助を行うという形をとり、音楽評論家 ヴォルフガング・シュタイネッケが設立した。ナチスの弾圧した音楽を戦勝国であるアメリカが積極的に後押しをしたのだ。

その講習会には多くの国の作曲家たちが参加し作品を演奏して議論を繰り広げた。当時、作曲家たちは共通してテクノロジーに魅力を感じており、調性的な過去の音楽を排除することを望み、メロディを個人的、ロマン主義的なものとして大変嫌ってロマン主義をファシズムと関連づけていた。
当時の状況をオランダの作曲家ペーター・シャットはこう述べている。

戦後、人々は大袈裟な身振りな音楽はもう聴きたくないと思っている。というのは、ムッソリーニやヒトラーからそういうものがあまりにも多くもたらされてしまったからだ。

実際、ダルムシュタット市のほとんどが戦争中に爆撃を受けていた。

さて、講習会の開始2年間は、ヒンデミットストラヴィンスキーダリウス・ミヨーアルテュール・オネゲルといった第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の音楽を学び直すことに費やされた。1948年にシェーンベルクのピアノ協奏曲が紹介されると、一変して新ウィーン楽派による12音技法が興味の対象となる。翌1949年には、オリヴィエ・メシアンが講師として招かれ、12音技法に夢中になっていた若い世代に刺激を受けて、《音価と強度のモード》という曲を書いた。

この作品は音を4つのパラメーター、音の高さ、音の長さ、音の強さ、音色に分けて捉え、個々のパラメーターで用いる要素を限定し、基礎となるセリー(列)をあらかじめ作った上で合理的に曲を組み立てていったもので、メシアンが、基礎となるセリーをモード(旋法)として扱ったことから、後のトータルセリー音楽とは一線を画しているものの、若い音楽家の道標となった重要な作品である。

オリヴィエ・メシアン

ここでメシアンについて簡単に紹介したい。
1908年 フランスに生まれ亡くなる1992年まで、20世紀の音楽界を牽引した重要な音楽家の1人だ。作曲家、オルガニスト、ピアニストとして長年活動したことに加え、多くの有名な生徒を育てたことでも知られる。
後に紹介するブーレーズ、シュトックハウゼン、クセナキス、グリぜー、ミュライユ。そして矢代秋雄をはじめとする日本人もメシアンの弟子で、枚挙にいとまがない。彼ら弟子たちがそれぞれ色々な音楽のスタイルを創り上げていく。
メシアンは、12音技法を発展させ、1950年以降彼の弟子たちによって確立されるセリー音楽のいわば「橋渡し」的な存在となったのだが、ここではもう一つ、私が個人的に20世紀に生まれた音楽で最も好きな音楽の一つである世の終わりのための四重奏曲について触れたい。

世の終わりのための四重奏曲

この曲はヴァイオリン、クラリネット、チェロ、ピアノという特殊な編成である。1940年6月、第二次世界大戦でナチス・ドイツを抑えるためフランス軍の兵士として動いていたメシアンは、ドイツ軍に捕えられてしまい、ドイツとポーランドの国境に位置する街 ゲルリッツの捕虜収容所に連れ去られてしまう。そこはもちろん劣悪な環境だったのであるが、娯楽には比較的寛容で、収容所内には図書館が設置され、オーケストラやジャズ・バンドが存在していた。劇場もありコンサート、バラエティーショー、映画上映や捕虜たちによる講義が行われていた。音楽家は捕虜の中でも比較的優遇されており、メシアンが有名な音楽家であることが知られるようになると、捕虜の義務を免除され、作曲に集中できるよう別の棟に移された。その収容所ではメシアンの他に音楽家がいて、その音楽家が弾ける楽器が、ヴァイオリン、チェロ、クラリネットだったのである。そこでピアニストの自分を足した4人で演奏できる曲をメシアンは書き始めた。収容所にはチェロやヴァイオリンはいくつかあり、クラリネットもその奏者が持ってはいたが、ピアノはなかったため、はじめは四重奏曲のリハーサルは出来なかった。1940年11月にピアノが到着すると、彼らには1日4時間の練習時間が与えられ、翌年の1941年1月についに初演となった。

曲は8楽章8個のエピソードから構成される。
8という数字は、キリスト教の考えの天地創造の7日目の安息日が延長して、不変の平穏な8日目が訪れる、ということに由来されていると言われている。
戦争の経験がない私には、常にいつ何が起こるかわからない、計り知れない恐怖と戦わなければならない当時の状況がどのようなものだったか、ということは想像することすら難しいが、この曲はまさに生命の希望の光を感じる音楽だと感じる。この約120年前にベートーヴェンが示した「絶望から希望への世界」「ヘーゲルの弁証法的な世界」とはまた違った世界をメシアンは私たちに示してくれているのである。

ピエール・ブーレーズ

このメシアンの一番弟子が先程も名前をあげたピエール・ブーレーズだ。
彼は1926年に生まれて2016年に亡くなる直前まで働いた、文字通り現代音楽界の巨匠。
ブーレーズについては列記すべきことが多すぎるため、ブーレーズにフォーカスしたまた別の記事で詳しく紹介していきたい。
ここではポイントのみにふれる。ブーレーズは1948年、12音技法を駆使してピアノ・ソナタ第2番を作曲した。この音楽は12音技法を使った作品のトップに君臨する代表的な作品である。
ブーレーズ自身はこの曲について、

古い諸々の形式を解体し、シェーンベルク的音列概念と訣別しようとした作品


と語っている。12音技法を基礎とし、各楽章で12音音列が設定され、基本となる音列は譜面上で冒頭に提示されている。しかし、ほとんどの箇所で音列が複雑に入り組んでいるため、曲を分析することは大変難しい。曲を理解するのに十分な知識が必要とされるのみならず、演奏がとても困難な箇所も多く存在し、20世紀のピアノ曲の中でも屈指の難曲とされている。

アメリカ

このブーレーズの音楽に大変感銘を受けたのが、前回の動画で「20世紀の音楽史に最も大きな影響を与えた1人」として紹介したアメリカの作曲家 ジョン・ケージである。
1940年代のアメリカは、もちろん戦争中で、多くの兵士が参戦し犠牲となったが、攻撃されたのはハワイだけで本土が戦場とならなかったという点で、ヨーロッパとは状況が少し違っていた。加えて、アメリカの経済力はすさまじいもので、音楽業界においても1942年にはクリスマスソングの定番「ホワイトクリスマス」が作られたりと、活動は意外にも盛んに行われていた。

ジョン・ケージ

そんな中、着実に独自の音楽の道を歩んでいたケージは1949年4月から9月まで、ヨーロッパの音楽を知ろうと、ミラノやパリなど数か国を訪れ、特にパリでは、その街並にも芸術にも感動し、メシアンそしてブーレーズと出会った。ブーレーズの音楽に殊更に感銘を受け、またブーレーズもケージのプリペイドピアノのためのソナタとインターリュードに夢中になった。
ここでの出会いからブーレーズは、ケージの音楽をヨーロッパに、ケージはブーレーズの音楽をアメリカに紹介し、熱い交流が生まれてくる。
ヨーロッパとアメリカを代表する彼らの交流により、現代音楽界はさらなる展開をこれから見せていく。

1945年を境に世界が一変するヨーロッパの1940年代。この時期のソ連、日本はどのような感じだったのか。

ソビエト連邦

ソ連も1940年代前半は、独ソ戦の真っ只中であった。
第2次世界大戦(1939 – 1945)そのさなかには、ソヴィエトの英雄的精神を歌った作品が数多く書かれるとともに、時代を背景とした深刻さや悲壮さといった音楽も書かれた。
ソ連を代表する作曲家 セルゲイ・プロコフィエフピアノ・ソナタ第6, 7,8番は「戦争ソナタ 3部作」と言われ、作曲者自身もこの作品を戦争に対する告白という風に述べており、戦争という時代背景や社会情勢を見事に反映した作品と言える。
1948年2月、ソ連共産党中央委員会は、このプロコフィエフ、そしてショスタコーヴィチらの作曲家を痛烈に批判する声明を発表した。それはジダーノフ批判とよばれ、ソヴィエト政府が第2次世界大戦中から戦後にかけての芸術管理が甘くなった結果、作曲家たちにかつての社会主義リアリズムを軸とした創作活動が弱まったため、国家の介入が必要と考え再び取り締まり、彼らの気持ち・思想を引き締めようとしたものであった。
これによりスターリンの死後まで、党もしくはスターリンを賛美する作品が大量に生み出されることとなった。それは音楽劇や歌曲、映画音楽などわかりやすいもので、例えばショスタコーヴィチは、オラトリオ「森の歌」(1949)、歌曲集「ユダヤの民族詩から」(1948)、映画音楽「ベルリン陥落」(1950)などを立て続けに書き、体制への忠誠を示した。しかし、それは表向きの姿で、彼は同じ時期に弦楽四重奏曲第4番(1949)ヴァイオリン協奏曲第一番(1947-48)を作曲しており、そこには体制の抑圧に対する苦しみだったり、自分が表現したい純粋な姿が反映されている。いわば「日記、内面や本心の独白」といったところだろうか。これらの作品が公に出ることはこの時期は当然なく、スターリンの死後まで待たなければいけなかった。

日本

最後に1940年代の日本を見ていこう。
1940年代に入ると、20年代から30年代にかけてヨーロッパに留学した作曲家たちや、東京音楽学校作曲家出身の作曲家たち、例えば團伊玖磨芥川也寸志(作家 芥川龍之介の三男)、黛敏郎が作曲活動を始める。
それに伴って30年代には民族主義的な作品が優勢であったのに対して、40年代はアカデミックな作品が台頭し、民族:アカデミック半分半分といった形になる。40年代に書かれたアカデミックな作品は、30年代までのアカデミックな作品に比べて作曲技法が一層熟達していて、ヨーロッパの同時代音楽の手法を積極的に取り入れている。例えば芥川の交響管弦楽のための音楽(1949)や黛敏郎の10の楽器のためのディヴェルティメント(1949)などには1920年代の新古典主義の作品からの影響が見られる。
また1940年代には職業オーケストラの活動も盛んになっていく。

まとめ

チェックポイント

・戦後すぐの1946年からドイツ・ダルムシュタットで国際夏季講習会が始まり、世界中から音楽家が集まって「現代音楽」のメッカとなった。

・その講習会で作曲家メシアンが作曲した「音価と強度のモード」が12音技法と1950年代に頂点を極めるトータルセリー音楽の橋渡しとなり、メシアンの弟子たちによってさらに発展していく。

・20世紀の音楽界を語る上でとても重要な2人の音楽家、ジョン・ケージとピエール・ブーレーズが出会い、お互いの作品を欧米で紹介しあって盛んに交流をし始めた。

・ソ連では戦争が色濃く反映された曲が作られ、1948年には再び、ジダーノフ批判という文化の取り締まり政策が行われ、ショスタコーヴィチやプロコフィエフらは、体制のための作品を書かなければならないことと自分の内面で表現したいものとのジレンマで苦しんだ。

・日本では、西洋からの作曲技法を使っての音楽作りがより積極的に行われた。

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